2010年 10月 25日
尊敬する“一画多い”様へ Ⅰ |
気持ちを伝えるのは難しいですね。いろいろ考えた末、このブログを使わせてもらい、物語形式でトライしてみることにします。やや長いので、何回かに分けて。
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その生きものは何よりも愛され、そして信頼されていました。彼のおかげで、動物園に人の途絶える時間はありませんでした。
人々はまず、そのからだを覆う美しい色合いを賛美しました。
「なんて深く、つややかな漆黒なんだろう。陽がさせば、甲冑のような皮膚の襞一本一本が玉虫色の輝きを放ち、雨の日はからだを伝う水滴の一粒一粒が星となり、どこまでも遠く深い闇の宇宙にきらめく。目の黒は、それらを凝縮して集めた鉱石のようで、美しさは黒瑪瑙に勝り、時には――残酷なようだが――手のひらに載せて、その幻想的な美にいつまでも酔っていたい衝動にかられるのだ」
次に讃えられるのは、静かで穏やかな性質でした。伝説では“戦いの神が磨いだ氷柱のよう”といわれる鋭い爪を持っているはずなのに、それを見た人間は誰一人としていません。彼のいる園舎にはさまざまな種類の動物が放し飼いにされており、時には見物客も入ることができましたが、どんなに荒々しい獣にも、いたずら好きな子供にも態度を変えることは決してありませんでした。自分と触れ合おうとするものには誰にでも潔くからだを預け、一定の時が過ぎると、まるで時間を計ったかのように自ら離れていく。それはやや冷たく思えるほどつつましく、機械的なほど公平な習性でしたが、一瞬にして深い安らぎを相手にもたらしました。その波動が伝わったのか、園舎の動物のうちに問題を起こすものは一匹もいなくなりました。
一つだけ、欠点があります。いえ、欠点と呼べるものではないのですが。歩き方がいっぷう変わっているのです。まず前脚を上に突き出し左右交互に何度か空を切ります。やがて倒れ込むようにつんのめり5、6歩前進。そして、また前脚を突き出す。この繰り返しで進みます。やや滑稽で、それが彼の優美さを損なわせていると陰口をたたく人もありました。しかしほとんどの人はサーカスの芸当のように感じており、さらに、完全さの中の小さなヒビが彼への親愛を深めるのだと語り合いました。
そんな愛すべき生きものですから、自分だけのものにしたいと思う輩はいるものです。高価な貢ぎ物と引き換えに彼をほしいという大金持ちが世界中から集まりました。園の持ち主は公益を重んじる欲のない人であったので、その申し出をすべて断りました。彼自身、この生きものをこよなく愛していたのです。園で働く雇い人たちも、皆同じ気持ちでした。
雇い人たちの中にシイと呼ばれる小柄な男がいました。数年前、どこからともなく現れて、ここで働きはじめました。太陽の光は彼を避けて通るのかと思わせるほどの青白い肌、怪しげな光を放つ目、異国訛りの話し方は園の中でもかなり異彩を放っていましたが、不思議なことにその存在に気を留めるものはほとんどいませんでした。
そのシイが、あの生きものに狙いをつけたのです。一つところに留まることのない彼は、この地を去るとき生きものを連れて行こうと密かに計画を練っていました。
シイの計画はこうです。毎夜、雇い人たちは交互で二人一組となり、園の警備にあたります。一緒に組む相手として、彼はある人物に目をつけました。ブランという若者で、病気の母を持ち、宿直の日は途中で抜け出して母の様子を見にいきます。それは雇い人たちの間で公然の秘密になっていました。その数分を狙い、生きものを連れ出します。旅から旅の生活をしてきたシイは人に知られていないけもの道にも通じていました。ブランと二人の宿直であること、足跡が残らない雨であること、光が届かない新月であること。これらの条件が重なる日を、我慢強く待っていたのです。
そして、とうとうその日がやってきました。
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その生きものは何よりも愛され、そして信頼されていました。彼のおかげで、動物園に人の途絶える時間はありませんでした。
人々はまず、そのからだを覆う美しい色合いを賛美しました。
「なんて深く、つややかな漆黒なんだろう。陽がさせば、甲冑のような皮膚の襞一本一本が玉虫色の輝きを放ち、雨の日はからだを伝う水滴の一粒一粒が星となり、どこまでも遠く深い闇の宇宙にきらめく。目の黒は、それらを凝縮して集めた鉱石のようで、美しさは黒瑪瑙に勝り、時には――残酷なようだが――手のひらに載せて、その幻想的な美にいつまでも酔っていたい衝動にかられるのだ」
次に讃えられるのは、静かで穏やかな性質でした。伝説では“戦いの神が磨いだ氷柱のよう”といわれる鋭い爪を持っているはずなのに、それを見た人間は誰一人としていません。彼のいる園舎にはさまざまな種類の動物が放し飼いにされており、時には見物客も入ることができましたが、どんなに荒々しい獣にも、いたずら好きな子供にも態度を変えることは決してありませんでした。自分と触れ合おうとするものには誰にでも潔くからだを預け、一定の時が過ぎると、まるで時間を計ったかのように自ら離れていく。それはやや冷たく思えるほどつつましく、機械的なほど公平な習性でしたが、一瞬にして深い安らぎを相手にもたらしました。その波動が伝わったのか、園舎の動物のうちに問題を起こすものは一匹もいなくなりました。
一つだけ、欠点があります。いえ、欠点と呼べるものではないのですが。歩き方がいっぷう変わっているのです。まず前脚を上に突き出し左右交互に何度か空を切ります。やがて倒れ込むようにつんのめり5、6歩前進。そして、また前脚を突き出す。この繰り返しで進みます。やや滑稽で、それが彼の優美さを損なわせていると陰口をたたく人もありました。しかしほとんどの人はサーカスの芸当のように感じており、さらに、完全さの中の小さなヒビが彼への親愛を深めるのだと語り合いました。
そんな愛すべき生きものですから、自分だけのものにしたいと思う輩はいるものです。高価な貢ぎ物と引き換えに彼をほしいという大金持ちが世界中から集まりました。園の持ち主は公益を重んじる欲のない人であったので、その申し出をすべて断りました。彼自身、この生きものをこよなく愛していたのです。園で働く雇い人たちも、皆同じ気持ちでした。
雇い人たちの中にシイと呼ばれる小柄な男がいました。数年前、どこからともなく現れて、ここで働きはじめました。太陽の光は彼を避けて通るのかと思わせるほどの青白い肌、怪しげな光を放つ目、異国訛りの話し方は園の中でもかなり異彩を放っていましたが、不思議なことにその存在に気を留めるものはほとんどいませんでした。
そのシイが、あの生きものに狙いをつけたのです。一つところに留まることのない彼は、この地を去るとき生きものを連れて行こうと密かに計画を練っていました。
シイの計画はこうです。毎夜、雇い人たちは交互で二人一組となり、園の警備にあたります。一緒に組む相手として、彼はある人物に目をつけました。ブランという若者で、病気の母を持ち、宿直の日は途中で抜け出して母の様子を見にいきます。それは雇い人たちの間で公然の秘密になっていました。その数分を狙い、生きものを連れ出します。旅から旅の生活をしてきたシイは人に知られていないけもの道にも通じていました。ブランと二人の宿直であること、足跡が残らない雨であること、光が届かない新月であること。これらの条件が重なる日を、我慢強く待っていたのです。
そして、とうとうその日がやってきました。
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by ehonya-kirin
| 2010-10-25 13:32