2009年 12月 12日
フラーニャと私 |
ユーリー・ノルシュテイン/構成・文
児島宏子/訳
『霧の中のはりねずみ』などで知られるアニメーション作家、ユーリー・ノルシュテインが自分の作品にかかわった人や風景を、写真や画、散文のような文体で語った本。「フラーニャ」は彼の妻。”チーム・ノルシュテイン”の一員として映像のための画を描き続けるこの人は彼の作品に最も深くかかわる人物といえるでしょう。
作品づくりの協力者はもちろん、この本の中で印象深いのは、アニメーションの登場人物のモデルとなった人々。実在の人物から、既にこの世の人ではない詩人や物理学者などの写真、記憶の中の叔父や叔母…ノルシュテインという人はあらゆるところからモデルをすくい出すのです。
生と死、記憶と現実の隔たりが、この人の中では大したものではないのでしょう。「悠久」という言葉がここにふさわしいかはわかりませんが、その中にある遥かな時間に憧れます。
それは私の中では、ロシアという国ともリンクするもの。ロシアの今日には詳しくはないですが、ロシアのイメージの基礎にあるものは、今でもやはりプーシキンやトルストイ、ゴーゴリなんかの世界。もっといえばロシア民謡「1週間」。火曜にお風呂を焚いて水曜に入るような、あのゆったりとした時の流れ。土地も空気も人も、内包しているものが、やはり私たちとは違うと思う。美化するつもりはないのですが(でも、実は「1週間」の歌詞も憧れだったりするんですよね)。
さてこの表紙の人形はノルシュテインの作品の一つ『話の話』に登場する狼。これにもやはりモデルがあって(人間ではないけれど)、首に石を結わえつけられ水に落とされ、引き上げられたばかりのずぶ濡れの猫の写真だったそうです。
「一瞬前に子ネコはあの世にいたのだ。痛みつけられた足で座っている子ネコの片目は、邪悪に満ちた悪魔のような火の色で燃え、もう一方はどこか、あらぬ所にいるように火が消えている…まったく死んでいる…」
表紙を見て一瞬で買わずにはいられなくなったのですが、この解説を読んで、そのとき自分の中にふくらんだものがつながりました。あー、愛だ…。なんて…いえ、決してあぶなくないと思うんですが…。
やっぱりちょっと変ですか? でも、この作家の世界に身をゆだねていると、そんな言葉の表現もアリだと思えてきたんです。
児島宏子/訳
『霧の中のはりねずみ』などで知られるアニメーション作家、ユーリー・ノルシュテインが自分の作品にかかわった人や風景を、写真や画、散文のような文体で語った本。「フラーニャ」は彼の妻。”チーム・ノルシュテイン”の一員として映像のための画を描き続けるこの人は彼の作品に最も深くかかわる人物といえるでしょう。
作品づくりの協力者はもちろん、この本の中で印象深いのは、アニメーションの登場人物のモデルとなった人々。実在の人物から、既にこの世の人ではない詩人や物理学者などの写真、記憶の中の叔父や叔母…ノルシュテインという人はあらゆるところからモデルをすくい出すのです。
生と死、記憶と現実の隔たりが、この人の中では大したものではないのでしょう。「悠久」という言葉がここにふさわしいかはわかりませんが、その中にある遥かな時間に憧れます。
それは私の中では、ロシアという国ともリンクするもの。ロシアの今日には詳しくはないですが、ロシアのイメージの基礎にあるものは、今でもやはりプーシキンやトルストイ、ゴーゴリなんかの世界。もっといえばロシア民謡「1週間」。火曜にお風呂を焚いて水曜に入るような、あのゆったりとした時の流れ。土地も空気も人も、内包しているものが、やはり私たちとは違うと思う。美化するつもりはないのですが(でも、実は「1週間」の歌詞も憧れだったりするんですよね)。
さてこの表紙の人形はノルシュテインの作品の一つ『話の話』に登場する狼。これにもやはりモデルがあって(人間ではないけれど)、首に石を結わえつけられ水に落とされ、引き上げられたばかりのずぶ濡れの猫の写真だったそうです。
「一瞬前に子ネコはあの世にいたのだ。痛みつけられた足で座っている子ネコの片目は、邪悪に満ちた悪魔のような火の色で燃え、もう一方はどこか、あらぬ所にいるように火が消えている…まったく死んでいる…」
表紙を見て一瞬で買わずにはいられなくなったのですが、この解説を読んで、そのとき自分の中にふくらんだものがつながりました。あー、愛だ…。なんて…いえ、決してあぶなくないと思うんですが…。
やっぱりちょっと変ですか? でも、この作家の世界に身をゆだねていると、そんな言葉の表現もアリだと思えてきたんです。
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by ehonya-kirin
| 2009-12-12 17:02